東京・谷中一丁目、健脚の神様「日荷上人」を祀る日蓮宗六浦山延壽寺

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日蓮宗六浦山 延壽寺

延壽寺開創は今から約三五〇年前

時は明暦二(1656)年、第四代将軍徳川家綱の時代。
延壽寺は覚性院日勤(かくしょういんにちごん)上人によって開かれました。

開創当初は大乗山延壽院と呼ばれ、同じく谷中にある瑞輪寺との本末関係にありましたが、それもその後解消され、宝永年間(1704〜1710)に身延山久遠寺の直末となります。

やがて宝暦五(1755)年に延壽寺と名を改め、その際に身延山山本坊より日荷上人尊像を
勧請{注1}しました。
尊像は現在も、日荷堂に安置されており、毎月十日にご開帳しております。

堂内に飾られる「男女拝み図額」(ばん龍斎宗山画)

堂内に飾られる「男女拝み図額」(ばん龍斎宗山画)

度重なる天災に見舞われる

延壽寺として名を改めた、その直後ともいえる宝暦七年(1757)のこと。
関東地方は大規模な洪水に襲われます。

そのため江戸の食糧の供給が途絶え、庶民の暮らしは悪化、悲惨の極みに達します。

そんな折に日蓮大聖人の教えを人々に説いてまわったのが、第十世日鑑(にちかん)聖人。
聖人は日勤上人によって灯された法灯を高く掲げることで、暗くなった人々の心に光を呼び戻したのです。

こうした数々の功績を賞され、宝暦十(1760)年には、聖人号と中興の祖の称号が贈られます。

しかし、江戸の街はまたしても災害に襲われます。
それは明和九(1772)年のこと、目黒行人坂からの出火が、日本橋に至るまでの広範囲に渡り江戸の街を焼き尽くしたのです。
このとき延壽寺も本堂はじめ、寺宝や什宝もすべてが灰燼に帰します。

日鑑聖人は即座に建て直しを図ります。
壇徒の信施を得て、本堂、客殿、庫裡を再建し、このときに日荷堂も建立され、次いで安永三(1774)年には富増稲荷堂が再建されました。

安永七(1778)年に日鑑聖人は隠居の身となり、日解上人へと後を託します。
その際に延壽寺は、日荷上人ゆかりの地、六浦にちなみ、山号を六浦山と改めます。

ペリー来航の四年前の嘉永二(1849)年、境内に日荷上人の墓を建立。
日荷尊像が延壽寺に安置されて以来、約百年の間人々は「日荷さまのお寺」と呼び親しんで来ましたが、これにより名実ともにそうなったのです。

明治維新、そして現代へ

人々の篤い信仰を受け、世に親しまれた延壽寺でしたが、またしても災いに襲われます。
それは慶応四(1868)年、明治維新の動乱の最中でした。
上野山で繰り広げられた彰義隊と連合軍の戦火により、山門を残して全ての堂宇を消失してしまいます。
本堂、庫裡、そして日荷堂の仮堂が再建されたのはその後、明治九(1876)年になってからのこと。仮堂であった日荷堂が新しく再建されたのは、それからさらに三十五年度の明治四十四(1911)年になってからでした。

門前には、三叉路の角に根を張るヒマラヤ杉の大木。
背後には、この地域で最も勾配の急な三浦坂。

寺院の多いこの谷中でも特異な地にある延壽寺。季節の花木が彩る小ぢんまりとした境内は、谷中にふさわしい静寂なる空間です。

江戸時代から残る延壽寺の山門

江戸時代から残る延壽寺の山門

度重なる改修こそ行われたものの、その後は大きな被害を受けることもなく、現在佇む堂宇の姿は明治の時代の名残を見せます。寺の歴史、そして江戸の歴史が刻み込まれた堂宇の佇まいからは、歴代住職の労苦と、檀信徒家の信心のほどがしのばれるようです。


{注1}勧請とは

諸仏・諸尊を祀ること。

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延壽寺 足病守護の寺・日荷堂
延壽寺(えんじゅじ)
東京都台東区谷中1-7-36
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