日荷上人(にちかさま)ものがたり
東京都台東区谷中の延壽寺境内にある『日荷堂』。
門前にも「足病守護 (あしのかみさま) 日荷上人安置之所」と掲げられているように、このお堂には「健脚の神様」、日荷上人が祀られています。
日荷堂祭壇の日荷上人像。毎月十日にご開帳となる
むかしむかし、今から約七百年前のお話
日荷上人は、南北朝時代のお坊様。
出家前は現在の横浜市金沢区六浦あたりに住む裕福な商人であったと言われていますが、残念ながら詳細な資料に乏しく、定かではありません。
しかしながら、上人様の偉業を伝える話は今も語り継がれています。
「健脚の神様」と呼ばれるようになった由縁が、以下のおはなし。
「われは称名寺の仁王だが、改宗して身延山の守護神になりたい。
おまえの力でなんとか身延山に送り届けてほしい」とのお告げでした。
さっそくそのお寺に「仁王をいただきたい」とかけあったのですが、もちろん聞き入れてもらえません。
そこで一策。和尚が囲碁好きということを耳にした妙法は、仁王像を賭けた勝負を挑んだのでした。
なんとか妙法が勝ち、約束どおり仁王を貰おうとするも、和尚は「あれは冗談」と取り合いません。
さらには、「あんな大きい仁王を担ぎ出せる訳がない」とも。
そこで妙法、ある夜のこと。
ひそかに山門から仁王尊二体を担ぎ出し、それらを背負うこと三日三晩。
横浜の地から富士山の裏にある身延山まで、歩き通しに歩き、奉納に成功したのでした。
ことの次第を聞いて身延山の住僧はたいそう驚きました。
現在伝わる「日荷」の尊称は、このときの住僧が授けたものだそうです。
「日」はもちろん、日蓮宗の開祖である日蓮大聖人から。
「荷」の文字には「荷物」の他にも、「任務」や「責任」といった意味もあります。
その怪力無双と篤い信仰心に感激した住僧が、
妙法の健脚に相応しい名前として考えたものでした。
現在の日荷上人
今なお、人々は延壽寺を「日荷さまの寺」と、親しみを込めてこう呼びます。
この日荷堂も火事や戦火によって度重なる消失を経験しつつも、その度に人々の後押しを受け再建されました。
現在の建物は、明治四十四年に再建されたもの。数回に渡る大修復を経て今日に至ります。
お堂の中には上人様の力にあやかるべく、無数の履物をあしらった絵馬が奉納されています。
今のように交通機関の発達していない昔の人にとって、足の病とはよほど大きなものだったのでしょう。
ご開帳となる毎月十日には、門前に赤い提灯が掲げられる
こうした多くの人の祈りが込められた堂内の神聖な空気は、寺町として知られるこの谷中にあっても、一種独特の香りが漂うようです。
近年では「下町あるき」の名所として多くの人が行き交う谷中。
そのシンボルであるヒマラヤ杉の大木に、向きあうようにして佇む延壽寺。
特にこのお堂には、流行のマラソン・ジョギング愛好者も多く立ち寄ります。
その親しみがこうして未来へと継承されていくことに、日荷上人もきっとお喜びのことでしょう。
堂内の絵馬について
日荷堂内には、多くの履物絵馬が壁に掲げられています。
この絵馬はどれも、健脚を祈る人々、そしてその願いが叶ったことに感謝した人々が奉納したもの。戦災を免れた、主に明治期に奉納された八十四点が現存し、神聖な雰囲気づくりに一役買っています。
寺院の多い台東区には、例えば浅草寺の絵馬群など芸術性の高いものも多くあります。
その一方で、当延壽寺の民間信仰に基づいた絵馬の存在もまた貴重で、平成八年には台東区の有形民俗文化財として登録されるに至りました。
絵馬の図柄や素材も実に様々で、神仏を描いたもの、日荷上人の登場する絵巻物風のもの、下駄に草履、草鞋や木靴などの履物をあしらった立体的なもの、古銭を履物や文字の形に仕立てたものなど。
台東区の有形民俗文化財として登録される堂内の絵馬群
ここからは往時の人々の、暮らしや生活ぶりをうかがう事ができ、また履物そのものの歴史や技術の発達具合もうかがい知る事ができます。
図柄も大きさも、額の形も様々な絵馬が一同に並ぶ日荷堂。
「健脚の神様」日荷上人を祀ったこのお堂の霊験を示すような壮観な様相です。